お寺の歴史
太平寺は村のお寺さま
臨済宗妙心派・普光山太平寺は、大多数の住民が檀家であり、身近な寺です。
「同寺は、明應6年8月(1497年)に尾張の国・ 春日井郡水野村(太平山)に寂曳和尚が定光寺の末寺として開山、創建した由緒ある寺で、
ご本尊は木像立像(もくぞうりゅうぞう)の
聖観世音菩薩(しょうかんぜんぼさつ)です。
「寛文年間尾州春日井郡覚書帳」
(寛文年間 = 1660 ~ 1672年)によれば、平紫山・泰平寺 は定光寺の末寺となっています。
「寺名の変更はともかく、同寺は宝永6年2月 (1709 年)9世・知鞭和尚が本堂を改築、水野村を始め玉野村の人々が檀家になり隆盛を極めました。
「泰平寺」の檀家だった玉野村の人達は玉野川 を“岩割瀬の渡し”を利用し太平山中にある泰平寺に行くのは不便なことから、玉野村内に寺の建立を和尚に熱心に働きかけました。
移設先は玉野村南屋敷の有力な檀家が用地を提供するとともに多額な建立費を負担、檀家も協力したことから立派な寺ができました。
ところが弘化3年(1846年)に天災ならぬ 火災で全焼してしまいましたので、
跡地に仮本堂を建立しました。
12世・全密和尚は、いつまでも仮本堂ではということで檀家の協力を得て
同村新田に本堂を新築再興させました。
さらに 13世・戒宗和尚は平地ではなく丘陵 地(現在地)に本堂および山門を建立(大正11年11月)し再建しました。
現在は16世・峯仙和尚が立派に檀家をお守りしておられます。
玉野の歴史を綴る
同寺には、玉野村に伝わる伝記の人や村出身の賢人たちが眠っています。
玉野用水創設者・加藤助左衛門、官位を授かっ た名宮大工・川地白河守、漢方医・小島小太郎 をはじめ、村の歴代庄屋、組頭ら村の著名人の 位牌が安置されています。
また、南北朝の争いの渦中に“京の都"から 安住の地(信濃の国)に逃れるため、玉野の里で一夜を過ごすことになった一行(約30人)は、その夜半に夜盗に襲われ無残な最後になった御媛様や中央線敷設工事の犠牲者碑など玉野の歴 史を知る宝庫と言えます。
寺宝の一つに尾張藩主・徳川義直公が玉野川を渡船されたおりに使われた催(かい)2本が下賜(現在1本)されており、貴重な宝物が数多くあります。